2011年3月15日火曜日

はじめに

ひとくちに乳がんといっても、がんの種類、年齢、家庭事情、治療法、患者本人の治療に対する考え方などによって状況は違って来ます。つまり、同じ乳がん患者でも、誰一人としてまったく同じ体験をする人はいないのです。つどいのメンバーも皆それぞれ違った経験をしています。このページでは、メンバーそれぞれの体験を通じて、日本人女性が医療事情の異なるカナダでこの病気とどう向き合っているのかをご紹介します。

体験談を読むには右サイドの一覧をクリックして下さい。

体験談1:日本での手術を選択

発症年齢66才
2008年

7月2日 マンモグラフィ、超音波で腫瘍が見つかる。
8日 バンクーバー新報で知った「つどい」の集まりに参加
10日 生検実施
16日 家庭医からBad Newsを聞く
29日 手術担当医に会うと、左乳房全摘を告げられる。
8月はドクターのホリデーで休み、次回は9月5日といわれ、一ヶ月以上待つだけの状態に戸惑いを覚える。詳しい説明を聞くには、私の英語力では無理であった。

それで「つどい」のメンバーに相談した所、日本で手術をされた方が、日本での治療を勧めてくださり、すぐにご自分の医師に連絡してくださる。
東京の癌研有明病院の乳腺科に9月9日にアポイントが取れる。
日本での治療の道が開かれ、これで納得して病気と向き合えると元気になる。
私の家庭医に話すと承諾してくださり、ここでの検査結果と資料を持って行くために手配して頂く。

9月9日と17日にさらに詳しい検査があり、ここでの結果と照らして診断を聞く。乳房の近くに0.8mmの腫瘍が2つあり、ステージ1との事。
温存の選択も出来るといわれる。
私自身の病歴や身近な人の体験を考慮して、術後の放射線や化学療法、ホルモン治療を避けたいと思い、全摘を希望する。

10月6日 手術。リンパ節転移がない事が判り、ホッとする。

日本で手術を受けて良かった事:
  • 自分の希望を理解して頂き、納得して手術を受けられた。
  • たくさんの乳がんの患者さんと知り合い、色々な面で情報を得、勇気をもらった。
  • 快適な環境で3週間入院でき、家族の負担も少なかった。
  • 海外在住でも病院で受け入れて下さる道があることを知った。

現在は 半年に一度 チェックを日本でしています。
手術の痕を見ることにも慣れ、現在元気で過ごせる事を感謝しています。

乳がんは早く見つける事が本当に大切であると思います。
自分の身体になにか違和感を感じたら直ぐに検査しましょう。
そして、積極的に情報を集める事、通訳を求める事、私は直ぐに「つどい」に出席して、私に適した道を教えて頂いて本当にラッキーだったと思います。

この病気を通して、いのちには限りがあること、残された時間を 目的を持って大切に生きていきたいと願っています。

最後にこの「つどい」を立ち上げ、今日まで苦労して下さった方々の働きに感謝を申し上げたいと思います。

体験談2:宣告された時の気持ちは「無」

発症年齢42才
2006年

42才になったばかりの秋に右胸にビー球位の大きさのしこりをみつけました。でも 私の身内にも周りの知り合いにも 誰一人乳がん患者はなく 自分で触って分かっていながら 私は違うとホームドクターに行くのをためらい延ばし延ばしにして 数週間が過ぎ、それでも消えないしこりを何度も何度もチェックしてインターネットで調べまくり やはりこれは乳がんだとあきらめて ホームドクターのアポを取ったのはすっかり冬になってからでした。

ホームドクターからはすぐにマモにまわすからと言われ ホスピタルのマモに行きました。しこりのある右胸を2枚 なぜか何もない左胸を6枚撮りました。結果 しこりのあった右胸は問題なく 左胸にがんらしき物があるので検査を始めると言う事でした。細胞診、針生検、外科的生検(3cm程切り細胞を取る) その結果 浸潤していたため さらにこぶし大位 切り取る。

医師から がんと宣告された時の気持ちは=無=でした。考える事を拒否していたように思います。手術をし、放射線治療して、落ち着いた時にどーっと=あぁ やっぱり私はがんなんだ=と一人で泣いたり 落ち込んだりしました。

温存手術
こぶし大取っているので かなり目で見て分かります。乳房再建術はしていません。

リンパ節郭清
転移はありませんでしたが、後遺症でしびれと感覚まひはあります。

放射線治療
がんセンターに行って放射線をうけるのですが、その時 自分が癌患者なんだと一番自覚しました。胸の真ん中と脇の下に点粒程の刺青を入れるのですが、それが結構痛くて、身体中に刺青をしている人たちはよく我慢が出来るものだと変に関心していまいました。

ホルモン療法
5年間の予定でホルモン剤を飲んで3年経ちました。最初の1年くらいは気分が悪かったり、ホットフラッシュがあったりしましたが、2年目位から共存出来るようになりました。副作用としては軽い方だと思います。


再発や転移の恐怖は常にあります。少しでも 体調が悪かったりすると、え!もしかして。という思いはあります。そんな事ない!と思っている自分といつも戦いです。現在のカナダの医療では 再発や転移を発見するのは 非常に難しいように思うので、その影響もあると思います。

体調管理は特にはしていませんが、歩く事を心掛けて 仕事の行き帰り片道35分程歩いています。どんなダイエットより効果があり 体重がかなり落ちました。ただ、情報がありすぎて -がんに良い物 悪い物― 頭がパンクしそうになりますが、適当にはじきながら 自分にあいそうなものを選んでいます。

ストレスのない生活が出来れば理想ですが、それは無理に等しく なるべく気持ちを少しでも明るく、落ち着かせるようにしています。

仕事をしていますが 会社側には自分の病気の事は言っていません。言う必要はないと思ったので、言いませんでした。今の所 影響はないです。

家族はかなりショックだった様に思います。どんなに苦しい時でも 健康だけには 自信があった私で、.熱で寝込むことさえした事がありませんでしたから子供たち(娘2人息子1人)は それぞれに悩んだようです。ただ 家族の中に乳がん患者はなく、歴史を作ってしまったことに 申し訳なく思います。

自分の親に がんの報告をするのは つらかったです。彼らの心痛を思うというべきか言わざるべきか悩みました。今まで さんざん親不孝をしてきて 更に不孝の数を増やすのは心苦しかったです。

余談ですが、最初にがんだと思った 右胸のしこりですが、がん治療が済んでふと気がついて触った時には 影も形もありませんでした。不思議です。

体験談3:温存手術・再発・全摘・乳房再建手術

発症年齢50才
2002年

8月 胸にしこりがあるのに気付く。
9月 健康診断では気付かなかった。
11月 ファミリードクターに。
12月 乳がんであることを診断される。その後、すぐに手術医(ドクター・クースク)を紹介され、12月19日に温存手術。一晩のステイで帰宅。

2003年1月 ドクター・クースクにガン研に行って、抗がん剤をするように勧められるが、ケア・カードがまだないこともあり、オルタナティブ(補完代替医療)で治そうと、他の可能性を試みる。
4月 手術の傷跡にしこりを感じる。
5月にドクター・クースクに行くが、その場でのバイオプシーの結果、異常はないと診断。11月にやはり大きくなっている気がして、ファミリードクターへ。マンモグラムの結果は白だったが、その後、ウルトラサウンドで異常がある、ということになり、その場でバイオプシー。その後、急にしこりが大きくなり、同じく12月3日にガンが分かり、今度は、痛みもあり、急に大きくなり、手術もできなくて、12月24日から抗がん剤が始まった。抗がん剤は3週間ごとの7回で4月末に終了、抗がん剤がつらくて、海に飛び込みたくなったことがあった。また、気持ちが大きく揺れ動くことがあった。そんなときにも、夫は辛抱強く接してくれた。感謝している。そして7月ラジエーションが始まり16回。8月に終了。10月4日に乳房全摘と同時再建をする。
その後11月から4年間、タモキシフィンを摂取する。

診断された時の気持ち
何故、自分が、と言う、誰でも思う気持ち。結婚して3ヶ月だったので、夫と後10年は一緒に生きたいと思った。

乳房再建
自分のお腹の肉を切り取って胸に入れる整形手術。予定していた担当の医師が急に病気になり、助手の医師が急遽執刀。ちなみに予定していた医師は、半年後にその病気の為に亡くなった。胸の手術の痛みより、お腹の痛みがつらく、1ヶ月程は続いた。日本では3週間の入院だが、ここでは3日間の入院だった。お腹の違和感は今でもある。

ホルモン療法
タモキシフィンを4年間。ただ、2年経ったときに、アリミデックスに代えてみることになって、飲み始めたが、薬が合わなくて、最後は血尿が出たため、タモキシフィンにもどした。いずれにしても、一旦やめてからは、飲んでいない時の身体の調子のよさに気付き、飲んだり飲まなかったりを繰り返した。

補完代替療法
最初の手術の後、また、抗がん剤の後に、かなりドラスティックに食事療法でやってみたり、気功やホリスティックな治療、ビタミン療法他色々試してみたが、結局は手術でしかガンを取り除くことは出来なかった。

再発予防と体調管理
抗がん剤の副作用が今でも身体に残っている。
血管が細くなったので、血液検査の血液をとるのが難しいとか、足の裏に違和感がある、膝関節が痛いなどなど。そこで、体力をつけるための運動で水泳をしている。

病気と仕事の関わり
いずれにしても無理はできなくなったので、無理はしないようにしている。

からだ・心・パートナーとの関係
夫は、献身的に面倒を見てくれた。大変感謝している。夫婦の絆は深まったと思っている。結婚して丸8年だが、もっとずっと長く一緒にいるような気がする。

周囲の人との関係
ガンを経験したことで人の痛みや弱さを知った。少しは成長したのではないかと思う。神様はその人が耐えられないほどの苦痛は与えないと信じている。人間を知る経験を与えられたことに感謝している。

体験談4: 事前に知識があれば…

発症年齢52才
2005年

母、父方の祖母が75才頃乳がんになり、二人とも全摘をしたにも関わらず、私は70才を過ぎてから気をつければ良いと全く心配していなかった。そのため、2003年、2004年は通知をもらったのに、マンモグラフィーを受けなかった。

2005年1月にジェネラルチェックを受けた時、ホームドクターにマンモグラムに行くようにと予約を取ってもらいました。2ヶ月後に予約が取れたのですが、しこりは自分では見つけられなかったものの、何か右側につるような違和感があり、少し気になり始めた。

マンモグラフィーを受けた翌日、電話があり、バイオプシーをする必要があると言われる。その時、悪い予感が当たったと思った。キャンセルが出て、予定より数日早くバイオプシーを受ける。採ったサンプルを主人とセントポール病院に直ぐに届けた。車の中で待っている間、渡された冷凍のグリンピースを傷口に当てて冷やす。バイオプシーの結果は、ホームドクターた休みだったので、初対面の若い女医に聞く。その医者からは「結果は乳がんです。私の言える事はファーストステージではないこと、期待してもらいたくないので、これ以上はスペシャリストから聞くように。」と言われ、唖然とする。体の横が痛かったりすると「ああ、もう転移してしまったのかな、もう手遅れで死ぬのかな」と本当に思った。

それからスペシャリストに会うまでの約一週間が一番辛かった。幸い、スペシャリストにキャンセルが出て予定よりも1週間早く会う事が出来た。予定通りだったら精神的にどうなっていたか分からない。

スペシャリストはご自分の親指を見せて、この爪(結構大きな指だったけど)くらいの大きさだから簡単なデーサージャリーと言ってくれた。その言葉を聞いた時は、暗闇から抜け出し、思わず顔がパーっとほころび、とっても嬉しくなったのを覚えている。これで胸を失くさないで済む、生きられると思った。ドクターの話を聞いている間、スマイルを隠せなかったのを覚えています。

手術はマンモグラフィーを受けてからちょうど1ヶ月後の4月14日と言われ、あまりの早さに驚いた。手術日は朝7時にVGHに行き、11時半頃から手術が始まり、麻酔から覚めて2時間後には主人に迎えに来るように看護婦が電話をしていた。日本なら最低3日は入院するのに…と思いながら、自分で傷口を消毒するためのガーゼなどが入った茶色のサンドイッチの紙袋を持って帰宅する。

2日後には近所をゆっくり散歩、4日後には洗濯もして、重いものを持ってはいけませんと言われていたのをすっかり忘れて、濡れた洗濯物が入ったタライを持ち上げてしまい、イタターと気がつき、それからは注意したが、6日後にはピアノのレッスンも始め、お料理などの家事もして、ほとんど普通の生活をしていた。その日に退院というのは却って精神的にも肉体的にもよいと実感した。

5月末から6月末まで放射線を受ける。それが終わって7月からホルモン療法を開始、5年間摂った。

放射線終了後3ヶ月が経ち、熱と咳などの肺炎の症状が現れ、肺炎の薬2種類を投与されるが効かず、レントゲンも何回も撮るが症状は悪化するばかり。ようやくスペシャリストに診てもらった時は、右肺が手遅れになるなる一歩手前だった。11日間入院し、その後ステロイド6ヶ月投与。これは放射線が肺に入る稀な症状で、確率はすくないが起こりうるとの事。もう少し早い段階で適切な治療を受けていればこれほど悪化はしなかった。自分の乳がんのことも、放射線の後遺症のことも、知識があったならと実感した。

体験談5:妊娠中に乳がん発覚

発症年齢32才
2008年


発見
癌は痛くないとよく聞くが、飼い犬が胸に乗って来た時などに痛かった。

乳がん検診
32才のときだったので、特に受けた事なし。

診断のための検査
触診、血液検査、超音波、X線撮影、造影剤を入れてのMRI、マンモグラフィー、細胞検査、ワイヤー検査など。

診断されたときの気持ち
妊娠中だったので、子供をこのまま産めるのかが一番心配だった。

病院・意志の選択
家庭医からの紹介。家から通いやすい距離にあること。

治療法の選択・意思決定
家庭医、外科医、腫瘍医、産婦人科医、家族との連携、相談の上。

セカンドオピニオン
インターネット、知り合いの医師、家族、他の患者などの話。

治療
左右の全摘。リンパ節切除あり。センチネル生検経験済み。

術後後遺症とリハビリテーション
リンパを切除したので浮腫予防に病院付きのリハビリ師から講習を受けた。しばらく腕が上がりにくかった。未だに右脇は触れた時の感覚なし。温度がわかりにくい、剃刀の使用時痛みがわからないなどの生活上の危険あり。

リンパ浮腫
早くから子供の世話などで腕を動かしたので、幸い浮腫はなし。

抗がん剤治療
髪の毛だけでなく、まつ毛や眉毛も抜けたので、目が痛かった。冬は頭が寒くて毛というものの大切さがよくわかった。体毛が生えて来ないので夏は脱毛をしなくてよい。最終的に治療が終わればまた生えてくるが、しばらくは縮れ毛だったり、細かったり、色が薄かったりした。

放射線・ホルモン療法
経験あり

再発・転移の徴候と診断
幸い経験なし。

再発予防と体調管理
病は気から。なるべくストレスをためないように。体をなるべく動かし、よく食べ、良く眠る。

病気と仕事の関わり
子育て中は病気の事はなるべくオープンにし、周りに理解と協力を求めた。

経済的負担
カナダで全て治療したので、薬代以外特に負担はなかった。

家族への思い
自分の為にも家族の為にも、まず未来在りきの姿勢で臨む。何が数ヶ月後、数年後、数十年後の自分たちにとって一番良いかを考え、機会が与えられたらそれを逃さず早めに実行して行く事が重要だと思う。死というものに直面すると、ただ生きているだけでも素晴らしい事だと思えるから欲がなくなるし、心から自分と家族が大切だと思えるようになった。

周囲の人との関係
いかにオープンにしようと努めても、相手の性格や、経験不足によっては理解が十分に得られない事はままあるが、あきらめず、言葉をつくして思いのたけをぶつけることも重要。もともとどんな次元の話でも、全く同じ経験や感性を持つ人を捜すのは難しい。自分だけでなく、同じような思いいをしている何万人もの人々への理解を深めてもらう一人の橋渡し役としてなら、なにか出来る事があるはず。生きているからこそ思いを伝える事も出来るし、経験した事だからこそ、伝えられる内容もあるはずなのだから。

体験談6:手術日の記録

発症年齢40才

2007年

発見
左胸に小さい5ミリくらいのコリッとした砂利のようなしこりに触れ、「えっ」と思って何回も何回も触り直しました。当時、私の左胸には良性のものがポコポコと何個かあって、しこり自体はめずらしくなかったけれど、このしこりの感覚は今までのものとはまったく異質のものでした。

シャワーから出てすぐインターネットで「しこり」について調べると「しこりの8割近くは良性」、そして「コロコロと動くしこりは良性」とも書いてあったので、自分のはどうかなと試してみると、なんとなく動くような動かないような…。「乳がんのしこりは石のように固い」と書いてあるのものもあれば「弾力性のあるもの」と書いてあるのものもあって頭の中は大混乱。生理の前になるとしこりが現れる事もあると、どこかで読んだので、生理が終わったらなくなるかもしれない、まさか私がなるわけがないと勝手に自分を納得させて、すぐにはドクターの予約をとりませんでした。

でもその後、生理が来ても終わっても、立って調べても寝ながら調べても、やはり同じところにしこりがあって、さすがの私も、あ、これはやばいかも…と感じてドクターに会いに行きました。

結果的にステージ1の浸潤癌だったのですが、5ミリほどと感じていたしこりは、実際には1センチほどでした。


手術日の記録
手術日は朝6時30分に一人で家を出ました。日帰り手術の予定なので小さなポーチに帰りのタクシー用の現金とケアカードだけを入れて持って出ました。

術前検査(心電図、血液検査、胸部レントゲン)は事前にすませてあったので、私の最初の予約は朝7時にジェネラルホスピタルでのセンネル生検でした。青いホスピタルガウンに着替えて先生の到着を待ちました。私を部屋に通してくれたナースがあちこち歩き回って「**先生まだ来てないの?」ってみんなに聞き回っていました。あせっている様子もなくあいかわらずのんびりしてる。30分くらいしてやっと先生登場。こちらのドクターはたいがい皆「ハーイ、私はドクター**です。ハウアーユー?」とにこやかに自己紹介をして、これからやる事を丁寧に説明してくれます。この先生も例外ではなく、自己紹介とセンチネル生検の説明をした後、早速しこりに注射を開始しました。「ちょっと圧迫感かんじますよー」…って圧迫感でなくてグイグイ注射器を押してる感じで痛いんですけどぉー。「ごめんねーもう少しで終わるからねー」っとやさしく言ってくれるのですが痛いのは痛い。涙がちょちょぎれてる私に、先生は「はい、終わったよ。じゃ、アイソトープがまわりによく行き届くようにガーゼの上から やさしくマッサージをしておいてえね」って去って行きました。

その後40分くらいベッドで雑誌を読みながら待った後、次はアイソトープがどの辺に行き渡っているかをみるスキャンでした。別室でガンマカメラを使って撮影。CTスキャンのような機械に患部側の腕をあげたまま寝転んで1回7分で2回撮影しました。撮影中は動かないようにと指示されました。

その後、写真(といっても人のからだの図とアイソトープがたどり着いたところに印がついた白黒のコピー)をもらい、次の予定地、BC Cancer Agency (がんセンター) に一人でテクテクと歩いて移動しました。外は抜けるような青い秋空が広がる良いお天気で、こうして歩いていても、まわりの人は私がこれから乳がんの手術をしに行くなんて想像もつかないだろうなって思ったら、自分がなんだか世間から取り越されたような感じがしてちょっと悲しかったです。

BCがんセンターでは、まずはデイサージャリー(日帰り手術科)にチェックインしました。看護士さんに家族の連絡先と迎えにきてくれる友達の連絡先を聞かれ、名前の書いたホスピタルバンドをつけられました。ここでも自己紹介。「ハーイ、私の名前は***よ。よろしくね。あなたは日本人?わたしは日本に行った事あるの。温泉の近くで野生の猿を見たのよ~。」なんて緊張している私をほぐしてくれようとしてくれました。ホスピタルガウンに着替え、分厚い緑の膝上までくるストッキングを履き、持っていたかばんと服をロッカーにいれました。そして、次の超音波下ワイヤー挿入に行くための迎えを待ちました。

車いすに乗せられて一つ上の階のエコー室に入りました。しこり位置をチェックするためのエコー。暗いエコー室の中で私も画像を見守りました。するとエコー技師が問題のしこりのすぐ横の影を入念に調べ始めました。「うーん、僕はくれも怪しいと思うんだけどなぁ」。エーッッ!!!一つだと思っていたしこりがふたつなの?今まで2回もエコーで調べてもらって誰も見つけられなかったって事?やっぱり私のがんは広がってるの?といろいろな事が頭をめぐり私はもうパニック状態。しばらくするとワイヤーを挿入するドクターが来て麻酔をしてワイヤー挿入。これがまたまた痛い!どうやらしこりのある周辺にちょうど筋肉があったらしいんです。センチネルの先生と同じく「ごめんねー。がまんしてねー」とは言ってくれるけどやっぱり涙。このワイヤーはしこりに目印をつけるためなので2本入れられました。

ちょちょぎれた涙を拭き拭き2階のデイサージャリーにもどり、あとは手術を待つのみになりました。トイレをすませストレッチャーに乗り、ナースが来て点滴の針を刺すために右腕の血管を探したけどなかなか浮いてきませんでした。暖かいタオルをまいて浮かせてようやく確保できました。


その後麻酔科の眼鏡の鼻筋のすっと通った先生が来て問診と説明をはじめました。そして「最近の麻酔は術後すぐ目覚めるし吐き気もないよ。信じないかもしれないけど麻酔の間みんないい夢を見るって言ってるんだよ。」と言い、さわやかなスマイルを残して去って行きました。

12時少し前執刀医 Dr.M登場。もの静かなおじさんていう感じの先生で「気分はどう?」って入ってきました。私のチャートを見て「朝からいっぱい突っつかれて(針やワイヤーで)大変だったね。もう少しだからね」って声をかけてくれました。エコーで影がもう一つ見つかったのでもしかしたら全摘になるかもと心配していたけど、Dr.Mはいっしょのエリアだし5ミリと小さいから予定通り温存で大丈夫といってくれて安心しました。

手術を経験した友達からは「手術は痛くもかゆくもない四次元の世界で行われるから心配ないよと」言われてましたが心のなかでは半信半疑でした。ストレッチャーで手術室に入り、ひんやりした手術台にズリズリと自分で移ったあと、いろんなものを貼られてあれよあれよと思っている間に麻酔科の先生が頭の上で「じゃ、今から薬いれますよー」って言ったのを聞いたのが最後、部屋がくるくるまわって気づいたときにはリカバリールームに帰っていました。

麻酔科の先生がおっしゃったように夢をみていました。どんな夢だったか覚えてませんが、「あー、なんかまわりで声が聞こえる」ってぼーっと目覚めてきました。しばらくして本当に目が覚めてくると、寒くもないのになぜだか震えがとまらず「震えがとまらない」とナースに訴えたら暖めた毛布を頭からかぶせてくれてやっと止まりました。患部に痛みがあったので痛み止めをもらって、しばらくはぼーっとしてましたが、1時間くらで痛みは治まってきたので自分で服を着てベットからおり、椅子に座ってナースと談笑しながら迎えを待ちました。

いろいろな準備にまわされて、いろんな先生が入れ替わり立ち替わりやってきて、つっつかれたり切られたり…と、まるでベルトコンベヤーに乗せられた「肉の塊」になった気分でしたが、大きな問題もなく手術は終了し、私の乳がん闘病の最初の長い一日が終わりました。

2011年3月14日月曜日

体験談7:発見から治療の流れ

発症年齢 39歳
2010年

発  見 5月28日(2010年)
マンモグラフィで。毎年チェックアップとともに受けるようにしていましたが、過去2年間は受けていませんでした。私の場合、しこりなどはなく、医師の触診でも確認されませんでした。

バイオプシー(生体組織検査) 8月16日 
局部麻酔で細胞組織を採取する“針生検”と呼ばれるものでした。1週間後、ファミリードクターより結果は乳がん、ステージ等の詳細は手術担当医から直接聞くように連絡を受けました。
今まで大きな病気をしたことも、乳がんについての知識もなく、どの程度深刻なのかもこの時点で知らされてなかったので、不安をかきたてられました。手術担当医の予約が1か月先だったので、その間本やインターネット、またつどいのメンバーに話を聞いて情報収集をしました。

手術担当医との面談 9月20日
最悪のシナリオも考えて臨みましたが、結果は初期の手前のプリキャンサー。非浸潤癌という乳管に留まっている癌で、その部分を取除く手術をするという説明を受けました。癌=抗がん剤=重い副作用と思っていたので、ほっとしました。

温存手術 10月8日
人生初の手術、しかも日帰りと聞いて緊張しましたが、麻酔から気持ちよく目覚め、痛みも余りなく、普通に元気でした。傷口も2cm位の1本線でした。

オンコロジスト(腫瘍スペシャリスト)との面談 12月3日
手術担当医からキャンサーエージェンシーのオンコロジストにまわされ、今後の治療について話し合いました。 経過は良好、MRIなどの検査でも問題はありませんでしたが、再発のリスクを下げるため放射線治療を受けることに同意しました。

放射線治療 2月25日-3月18日(2011年)
痛みもなく、所要時間は10-15分程度なのですが、3週間、週末を除いて毎日通院するのが大変でした。3週目あたりから炎症が始まり、皮膚がボロボロになりましたが、お陰で傷口が分からないくらいに消えました。

その後
6ヶ月後のマンモグラフィとウルトラサウンドで問題がなかったので、今後は年に1回のマンモグラフィとファミリードクターへの受診のみで経過をみることになりました。

*****乳がんになって*****
まさか自分が、どうしょうという気持ちでしたが、“つどい“の存在を知り、メンバーの方々のお陰で、現状を受け入れ、治療に向き合うことができました。そして、日本にいる家族を含め、友人、周りの人たちの暖かいサポートで乗り越えることができたと感謝しています。
また、乳がんについて調べたり、通院の際にキャンサーエージェンシーの主催するプログラムやセミナーに参加したりして、今まで知り得なかったことをたくさん学びました。ボランティアを含め、BCキャンサーエージャンシーのサポート体制は本当に素晴らしいと感心しました。
乳がんは早期発見が鍵になります。BC州では40歳を超えるとマンモグラフィは無料で受けられますが、40歳未満でもファミリードクターが必要と認めれば受けることができます。少しでも気になっている方、また私に限ってと思っている方も、先送りにしないですぐに検査を受けて頂きたいと思います。

2011年3月13日日曜日

体験談8:トリプル  ネガテイブ  ブレス キャンサー

診断(57歳)

2004年10月の朝、シャワーをあびてるときにふと右脇の下に1cmほどのクリクリのようなものを感じました。あれ、へんだなと思って、さっそくInternetで調べると、リンパ腺にできるクリクリは、虫にさされたとき、風邪をひいたとき、あるいは乳がんとかいてあって、さっそくFamily Doctorにいきました。胸にはまだしこりのようなものは何もありませんでしたが、DoctorはマモグラムとUltra Soundの予約をとってくれました。テストの1週間後Doctorからの電話で乳がんの恐れがあるので、翌日に外科医との予約をとったということです。
10月19日マモグラムとUltra SoundのFilmをもって、夫と一緒に外科医にあったとき、99%乳がんだと診断されました。その前日までわずかな望みがあったのですが、そのときはそれこそ崖から落ちるように、目が真っ暗になって、涙が茫々とでました。癌と診断されるまでは元気イッパイの私だったのですが、それから、紙一重のように癌の病人になってしまったのです。
Biopsy
そのころには右胸の12時のところにしこりがでてきました。すぐにBiopsyの予約があり、一度目の乳房からの検査では癌とはっきりとでませんでした。2回目のBiopsyでは脇の下のリンパ腺のしこりからも検査されました。そのときの検査では癌とはっきり確認されました。
Triple Negative Breast Cancer
検査の結果、私の癌は進行がんのTriple Negative Breast Cancerと診断されました。Triple NegativeとはEstrogenとProgesteroneというホルモン、 Her2の要素が全てNegativeで、悪性の種類です。この種の癌は乳がん全体の10%-20%で、治療方法がまだ未熟で、3年以内に身体の他の部分に再発されるリスクがあるということでした。
手術
手術の日取りが11月4日ときまりました。外科医は局部撤回とキモセラピー、Radiationの治療を推薦してくれましたが、自分で調べた結果、全摘手術を決心しました。再建手術をと外科医から言われたのですが、再建手術となると1ヶ月以上手術を待つ必要がありました。とくに脇の下のリンパ腺のしこりがドンドンとおおきくなっていくのがわかるので、この癌を一刻もはやくとってもらいたいと思うのみでした。手術のとき、全摘と16個のリンパ腺が摘出されました。手術のときには胸の癌は2cm、リンパ腺の癌は4cmになってました。一晩だけの入院で、翌日はまだフラフラな状態で退院させられました。
Physiotherapy
右胸から右の脇の下まで、手術でとられたので、右腕があがらなくなりました。それでPhysiotherapistに週2回合計6回ほど通って、おかげで右腕も前のようにあがるようになりました。

Chemo Therapy
私の乳がんはリンパ腺に及んでいて、また悪性のTriple Negativeということもあって、BC Cancer Agency からChemo が必要であると言われ、Clinical TrialをOfferされました。このClinical Trialはすでに何万人もの西洋諸国で実地されていて、3つのChemo Therapyのうち、一つをRandomに選択されるのです。私の場合、一番 Intensiveな方法が選ばれました。2週間に一度の2種類のChemoを6回。その後、また別のChemoを3週間に一度を4回。合計10回のキモをうまくいけば6ヶ月で終えるというものでした。一回目のキモは12月14日に行われました。
自分ががん患者であると痛感するのはこのキモを受けたときでした。初めのキモから10日後に髪の毛が抜けました。身体全体にひどい疲れの症状、毎日、自分の魂というかSpiritがなくなって、ただただ幽霊のように生きている状態です。一番苦しいときでした。日本から姉が来てくれて、夫、姉、多くの友達の助けがなければ、決して生きていけないとおもいました。キモを中止したいと何度も思いました。でも、夫が彼のために続けてほしいといわれると自分のためじゃなく、彼のためにキモを続けて生き延びようと決心しました。キモをやってる間に白血球、赤血球が減りすぎて、何回かキモの日が延長になり、6ヶ月のキモは7ヶ月以上かかりました。
Radiation Therapy
やっとChemoが終わったとおもうや、Radiation Therapyを推薦されました。私の場合、全摘をしたから、Radiationは必要なしと思っていたのですが、癌の摘出手術の際MarginがClearでないことから、Radiationが進められたのでした。でも、もうその時、私は生きるためにはなんでもやってやるという根性がでてきました。“なんでも来い“という気持ちです。Radiationは16回でした。Radiationはキモに比べると”お茶の子さいさい”と思われるくらい私にとっては楽なものでした。
その後に思うこと
全ての治療は2005年8月に終わりました。Triple Negativeは悪性で治療法も少ないのですが、一番いいことはキモとRadiationが終わった後のホルモン治療、たとえばTamoxifenをとる必要がないということです。またClinical Trialの今までのデータでは、私が受けたChemo Therapyが一番の効果があるということです。再建手術は受けないことにしました。これは私の勲章のようなものです。
もちろん癌などにかからないのが一番いいです。でも癌になって、いろいろなよいこともあります。まず、私自身が穏やかなやさしい人間になったのではないかと思うのです。病気の人の気持ちがわかるようになり、夫、家族、友達への感謝も増し、心の持ち方ひとつで毎日を楽しく過ごせることがわかるようになったと思うのです。

2011年3月12日土曜日

体験談9:日本で全摘、再建を選択しない理由

発症年齢: 47歳 (2003年)

どのような経緯で乳がんを見つけたのか?
入浴後、身体を拭いている時に左胸乳首下のしこりに気がつきました。その瞬間「乳がん?」とゾッとしましたが、その反面「まさか、私が?」とも思いました。

乳がんと診断されるまでの経緯は?
しこりを見つけた後、病院に行くのを1週間程ためらいましたが、心を決め、近所の総合病院に行きました。その当時、日本に住んでいたのですが、乳がんの診断が外科だと知らずに、間違って婦人科に行ってしまいました。病院で、マンモグラフィー、超音波検査の後、乳がんの疑いが強いという事で、その後にしこりの部分の針生検を受け、乳がんと診断されました。

乳がんと診断されてから、どうしたのか?
検査を受けた総合病院は、近所の病院だったので、セカンドオピニオンを求めて、別の病院の診察、検査を受けました。その2つ目の病院は大学付属病院で、アイソトープの検査もでき、その検査結果で左鎖骨近くに、まだしこりになっていないがん細胞が発見された為、全摘手術が必要と診断されました。

手術、治療等に関しては?
手術は左胸全摘手術を、セカンドオピニオンをもらった大学付属病院で受けました。術後、放射線治療、抗がん剤治療は受けていません。

ホルモン治療は受けたのか?
退院1週間後の外来診察の際、医師から、手術時に採取した3つのリンパ節からはがん細胞は発見されなかったけれど、私の場合は浸潤がんであると言う事から、ホルモン治療の説明を受けました。その説明では、ホルモン治療を受ける事により5年生存率が3~5%上がるが、その反面、子宮がん等のリスクが増えるといわれました。正直、自分ではどうしたら良いのか判らなかったので、医師に「もし先生でしたらどうなさいますか?」と質問した所、その医師は、はっきり「自分だったら受けません。」とおっしゃったので、ホルモン治療は受けない事を決めました。

乳房再建手術の話は医師からあったのか?
日本の病院だったせいなのか、担当医の方針なのか、全摘手術と決まった時も、医師からは再建手術の話は全く出ませんでした。それに、私自身、その時は「子供達もまだ就学年齢だし、悪い所は早く切り取って欲しい。」とその事ばかりを思っていました。また、私の母が(52歳の時に)乳がんの右胸全摘手術を受けており、それも今から30年以上も前の手術なので、胸筋や脇の下まで「とれるだけ取る」といったものでしたので、そのような母の術後の傷痕を見慣れていたという事もあるかもしれないと思います。

再建手術は考えていないのか?
手術後すぐは、命が有る事がありがたくて、胸を無くしても、それは命との引き換えだからと自分自身納得していたつもりでしたが、だんだん月日が経つにつれ、また、カナダに戻ってから、こちらでは全摘手術と同時に再建手術を受けた場合に保険が利くため、全摘手術を受ける人が多いという事等を聞いているうちに、私もお金は掛かっても再建手術を受けてみようかと思った時期が有りました。どんなに母の傷痕に見慣れていようとも、鏡に映る自分の姿を見れば、そこにあるのは普通ではない姿です。主人や子供達も「受けたかったらやってみたら。」と言ってくれましたが、そこからまた悩み出しました。まだ、結婚前や若い方、またパートナーがどうしても再建手術を受けて欲しいと思っている方は、すぐに決心できるのでしょうが、実際に再建手術を受けた方々から、その大変さ(時間がかかる事や、何度も手術を受ける事等)を見聞きして、果たして自分はそこまでして受けたいのか自分でも判らなかったのです。正直今でも時々考えます。ただ、まだ受けていない理由をしいていうなら、自分の身体に異物を 入れる事に抵抗が有るからだと思います。多分、もうこのまま私は再建手術は受けないだろうと思っています。